長山協50周年記念ヤズィックアグル峰登頂


長山協50周年記念事業として実施しました「ヤズィックアグル峰」登山隊が所期の目的を達成し、無事帰国しました。関係の皆様に感謝申し上げます。

長山協50周年記念、信高山岳会30周年記念

崑崙山脈アクサイ山群主峰ヤズィックアグル峰登山隊

秘書長・登攀隊長 大西 浩


1981年、県下の高校山岳部の顧問たちが集まり、信濃高等学校教職員山岳会(信高山岳会)が誕生しました。それ以来、私たちは山岳部の生徒とともに安全で楽しい登山を楽しむための、技術向上と顧問の交流、生徒の育成を主眼に活動してきました。発足当初より長野県山岳協会に加盟し、その傘下で、日中合同登山技術研修会や長野県高校生訪中登山交流会、アリューシャン登山自然調査隊、カシタシ主峰(セリッククラムムスターグ)登山隊などイベントを通して年代のつながりや内外の岳人とのつながりをつくってきました。
会の創立30周年ならびに長野県山岳協会50周年の節目の年にあたる2011年に、私たちは「高校生に夢を」という信高山岳会の原点に立って、その精神を共有できるかつて私たちが育てた教え子とともに、西部崑崙山域に、気高くそびえる未踏の阿克沙衣(アクサイ)山群主峰に、挑戦することにしました。この遠征を通じ、私たち自身が夢を育み、夢に挑み、得たものを、今後の高校登山の活動に反映させ、さらに多くの子どもたちに夢を語り続けたいという思いからです。
しかし、この計画が実現するまでには、いくつもの難関がありました。未踏峰であるため、2009年に偵察を計画しましたが、出発を半月後に控えた2009年7月6日に新疆では大規模な民族対立が発生、急遽訪中を断念せざるを得ませんでした。さらに2010年には新疆に入ることはできたものの、アプローチの新蔵公路が大雨の影響であちこちで決壊し、BC予定地の170kmほど手前で足止めになり、偵察はおろか目的の山を目にすることもないまま帰国することとなりました。しかし、そのことは一方で、夢を持ち続けることが、夢を実現するための最も重要な条件であるということを裏付けることともなりました。 隊は会長の松田大を隊長とし、会の外からも趣旨を理解・共有していただける2隊員を補強、後援団体である信濃毎日新聞社からも、記者派遣をしていただけることとなり(別表参照)6名で実施することとなりました。準備万端、計画もすべて整った4月初旬、昨年通行止めとなった新蔵公路の全面改修工事による立ち入り日の制限というまたしても予期せぬニュースが届き、タクティクスの全面的な見直しを迫られるなど、最後まで振り回された末の新疆入りとなりました。
さて、登山隊は6月初旬には隊荷を発送し、7月16日に日本を出発。ウルムチを経て入ったカシュガルで食糧調達などの最終準備を行ないました。21日にカルギリクから新蔵公路へと車を進め、22日には待望のBC(4530m)に入ることができました。翌日から早速登山活動を開始、ポーターを使ったABC(5030m)への荷上げが完了して全員でABC入るはずの前日の25日、山内に高山病が疑われる症状が現れました。一番近い病院まで500km、そこに行き着くまでに5000m近い峠を二つ越えねばならないというロケーション、隊付きドクターの不在など総合的な判断から、山内の登山続行は危険であると判断、荷上げを終えて帰るポーターとともに山を去るという結論を出さざるを得なかったのは大変残念なことでした。
隊 員 名 簿
隊務氏   名所属
隊長松田  大信高山岳会
秘書長・登攀隊長大西  浩信高山岳会
輸送梱包・医療久根  敏信高山岳会
装備山内 一成大町山の会
報道・気象佐藤  勝信濃毎日新聞社
食糧・環境三戸呂拓也炉辺会
結果ここからは、5人での活動となりましたが、登山のキーとなったのは荷上げとそれを可能にするC1への登路の確保と、頂上直下の雪壁の突破でした。26日ABC上部偵察隊が氷河末端のセラック帯を回避し、氷河の脇を詰め、5400mの地点でヤズィックアグル南氷河に乗り、そこから南東氷河との合流点まで進み、C1(5620m)の目処を立てました。27、28、29日の3日間でC1への荷上げを完了しました。休養をはさみ、31日にはC1入りし、その日のうちに本峰の南東面に回り込み、南東氷河の急斜面に荷上げのためにフィックスドロープを6本のばして荷上げ路を確保しました。翌8月1日には、荷上げを並行しながら5900mのプラトーまで、フィックスドロープをさらに5本のばし、クレバス帯の続く広大な氷河を詰め、C2(6060m)までの荷上げを完了することができました。ここまで来ると頂上はすぐ目と鼻の先に見え、ようやく登頂の二文字が現実のものとして実感できるようになってきました。
これまで29日に氷河上で雪が降ったほかは、概ね天候が安定しており、順調にルートが延びていきました。隊員の中には高所順応でやや苦労している隊員がいるものの、それは想定の範囲であり「慢々」で動くこととお互いに口に出し合い、フォローするというルールを徹底して乗りこえていきました。タクティクスではこのあと順応のためのC2往復ということを考えていましたが、隊員の状況、天候の予想(GDM会員西島氏とのメールのやりとりから3日・4日の好天が予想された)、C2往復による体力消耗と順応の兼ね合い等を総合的に判断し、一日の休養を挟み一気にアタックすることを決めました。
こうして、翌日のアタックを想定して、3日C2にはいりました。C2から見ると頂上は指呼の間、その日のうちに頂上稜線までの急な斜面のルート工作(フィックス3本)をしてアタック体制を整えました。4日は予想通りの無風快晴。6時に25分にC2を出発、前日のフィックスを使って1時間で頂上稜線に到達しました。10時30分には頂上から標高差400mに到達。ここからが、最後の正念場となりました。60度を超える壁、場所によってざくざくの氷の下の堅い氷、支点のとれないふわふわの雪、また腰までのラッセル、ナイフエッジ、わずか300mを登るのにロープ6ピッチ、時間にして4時間を要しました。そして、傾斜が落ちて南側に回りこみおよそ200m進むと、その先に私たちの立っているところより高い場所はどこにもありませんでした。C2を出ておよそ9時間、新疆時間の8月4日午後3時17分、青空の下に360度の視界が広がり、私たち5人は周囲のどの山よりも高い地点で長山協籏、信高山岳会旗、そして山内隊員から託されたミトンを掲げ、初登頂の幸せを噛みしめました。山岳協会の多くの方の応援に、天候も味方にして、帰らざるを得なかった山内も含め6人のチームワークで登った山。白い衣裳をまとった端正なヤズィックアグルは私たちにとって、最高の夢の舞台でした。