状況判断を高めること、リーダーシップ、フォロワーシップ


柳 澤 昭 夫(大町山の会)
  1. 情報のみをたよりに山登りをする危険を犯していないだろうか

     文化とか歴史とか、人が創ってきたものは、自然と人間の関係の中で人間の側に関するほんの小さなエリアで展開したに過ぎず、人間に都合のよいように自然を解釈してきたのかも知れない。もしかしたら、人間にとって嫌な部分、都合の悪い部分を捨て去って、都合よく再構築した事象の世界で自然を解釈してきたのではないだろうか。もちろんそれが悪いというわけではない。ある種の確かな世界であり、豊かさをもたらしてくれたことは事実である。人はその恩恵を受けている。だが、再構築した世界はバーチャルリアリティと呼ぶリアリティを持つとしても、仮想の世界である。この世界は都合の悪い部分を切り捨てた、いわば心地よい世界。その心地よい世界の上にさらなる快適さを求めて、バーチャルな世界を組み立ててゆく。確かに自分が創りだした世界では、主人公でいることができる。しかし、それはあくまで自分の構築した世界での話である。自然は、時として狂暴な牙をむき、自分の世界を超えて迫る。わずかな経験と垂れ流された情報と知識と人工的訓練で身につけた技術では、混沌とした自然の中に投げ込まれた時、状況をどう把え、どう判断し意志を決定するのか対応力を失い、最悪の場合は判断することを放棄することさえあるだろう。
     近年、登山に関するルートの案内など、いろいろな情報を手に入れやすくなった。ヒマラヤ登山でさえ、かつて苦労して調べた情報より格段に多量の情報を簡単に手に入れることができるようになった。雪崩や気象をはじめ、知識は多量に蓄積され、手に入りやすくなった。手に入れた情報や知識が多くなるにしたがい、情報をたよりに登山し、現実の山を観なくなってきたのではないだろうか
     情報の豊富な、良く知られた山は入山者が多い。例えば、穂高や剱岳の合宿はくりかえし行われているが、情報量の少ない鹿島槍の荒沢やカクネ里で合宿する山岳部は極めてまれである。ヒマラヤでも日本でも、情報が豊富で便利な山は人であふれ、未知で不便な山は不遇をかこう。
     厳しい自然にさらされた経験の少ない登山者が、情報をたよりに登山するとき、情報にない状況下に陥ったとき、あるいは情報が現実と一致しないとき、どんな対応ができるだろうか。中高年登山者の遭難の多発と、安易な救助依頼はこうした問題点を提示していないだろうか。
     自然の中で過ごす経験の不足は感性を鈍くし、混沌の中へ放り込まれた経験の不足は、判断することも行動を決定することも放棄し、茫然と自分を失う。どのような状況であろうと判断を放棄することは、チームの破滅につながる。
    忘れてはならない。山登りを始めるとき、われわれが手にしているのは、ほんのわずかなものであるに過ぎない事を。そう、本当はあまり何も知らないのである。知っているように錯覚しているのである。混沌とした、そして不安の中に放り込まれた経験は少ないのである。だからこそ山登りは、一歩一歩、用心深く、慎み深く、生きて帰る責任を持って進んでいかなければならない。
  2. 対話はチームを構成する基盤

     高速で広域にわたるネットワークが形成され、必要な情報とそうでない情報が世界を瞬時にして飛び交う。全世界何十億人もの人々がディスカッションすることも可能な時代を迎えながらも、情報の垂れ流しに戸惑うのも今の時代である。氾濫する情報で、人は多くの情報を手に入れることができる。だが、生身の人と人が対話をすれば、相手の意志や気持や情熱など、言葉に表れないものまで汲み取ることも出来るし、相手の嫌なところもぶつかってくるし、見えてくる。対話は情報や意見の交換のみでなく、そこには対立や情熱や争いや、変化するものが存在する。
     だが、Eメールや電話の対話にそれが存在するだろうか。もちろん、こうした機器が介在した対話であろうと、その過程でそれぞれの思考を深めることはできるだろう。だが、多様な対話が成立せずに、極めて目的的な機能的対話であることも否めない。人の嫌なところ・不愉快なところ・触れ合えば対立するところなど、総じて相手の否定的側面に触れずに、快適で心地よい人間関係が成立する。直接対話する関係は複雑でストレスもまた多いのに反して、電子・デジタル的対話は、快適であるが故にそれに依存する。多様で複雑でストレスの多い人間関係から、ストレスに耐えることや、弱点も欠点もある人間関係の中でも信頼関係を築く力など、多くのものを手に入れてきた。生身の対話の減少は人と人のぶつかる現実に適応性を失い、対話による思考の深化を進めることができない。かつては激しくそして魅力的なディスカッションが展開されていた。少なくとも、山登りの仲間の中で対話を再構築しなければならない時代を迎えているのではないだろうか。
  3. 論理的思考と感覚的思考

     近代科学は、論理的・合理的・数理的思考いわゆる科学的思考と方法論で、多くの成果を手に入れてきた。しかし、そうした科学的思考は、思考の過程で、論理的・合理的でないもの、数理的に杷えられないものを科学的でないと切り捨ててきた。
     論理的に組み込み難い、いわば感覚的・経験的にしか把えることのできないような、ある種の混沌とした思考とその成果を否定的に考えてきたのではないだろうか。本当は論理的に未整理なその部分に、多くの大切なものが存在しているのかもしれない。
     経験深い長老の判断が、科学の範囲を超えて正しいことだってあり得るのである。
     もちろん、科学的に成果を積み上げ事象を分析していくことは極めて重要であるが、同時に、経験を蓄積し、感性を磨き、感覚的思考力を高めていくこともまた重要である。
     経験は人に蓄積される。伝統とはそうした経験の蓄積が大きな力として機能することを言うのだろう。
     合理的・科学的な展開は、ともすれば人を傲慢な支配者に仕立て上げかねないが、感性を磨き、注意深く経験を分析し、自然に敏感であれば傲慢であることから免れる。
     大自然に翻弄される中で人の虚飾ははぎとられ、ちっぽけな弱い存在であることに気づく時、謙虚に自然に心を傾けるのではないだろうか。感性は自然の中に入ることでしか、磨くことはできない。
  4. 感覚を鋭くする

     明日の天気を心配する必要は少なくなった。肌で、暑さ・寒さ・冷たさ・濡れること・風に吹かれること・心地良いこと・悪いこと・つらいこと・耐えること・我慢すること、そうした状況を体験することは少なくなった。自然との触れ合いが減少し、自然に触れる喜び・感動・自然への驚異を失っていく。山登りは本来、多様で豊かな変化を見せる自然の中へ入ることで、人間らしさを取り戻す行為ではなかっただろうか。人それぞれに山登りに求めるものは違っても、登山は、保護されたシェルターから飛び出し、自然の事象に遭遇する冒険的要素の多い行為である。天候の急変・荒天・雨・吹雪・寒気・落雷・鉄砲水・落石・転落・滑落、山登りには危険がいっぱいある。極めてやさしいと言われる山でも季節が変われば、また、突然の荒天で難しい山に豹変する。シェルターのない山地では、夏山といえども危ない山になりかねない事は、幾多の遭難事例が示している。山登りは日常的に保護された世界から離脱するが故に、そのリスクを覚悟しなければならないのに、人は社会的事象にわずらわされるようになって、自然に対する感受性は低下し、自然の中に入るときのリスク感覚が薄れてきた。
     天気図を書く・解析する術は、学習することはできる。しかし、いくら頭の中で天気図を解析しても、現実の天候を天気図だけで読むことはできない。雨の冷たさ・吹雪のつらさを肌で感じてはじめて、変化に敏感になって現実の天候を把えることができる。言うならば、天気図は頭の中に入った山の概念図のようなものである。およその天気の概要を把えることはできても、今降る雨がどう変わるか・ここの増水は大丈夫か・今の晴天はいつ崩れるか・雪はどのくらい積もるか・雪崩は大丈夫か・この風にテントは大丈夫か、そう言った人と自然とのかかわりおける事象やリスクの判断は、天気を常に気にして、わずかな雲の彩りの変化・空の色に低気圧の接近や荒天のきざしを読み取り、降雪の変化に雪崩を予感する感覚を研ぎ澄ましてはじめて可能になる。デルスウザーラの如くとはいかなくとも、肌で感じるあたたかさ・ぬくもり・柔らかさ・冷たさ・風の向き・強さ・繊細な感覚は、気温計で測定しただけでは得られない情報を手に入れることも可能である。しかし、いつのまにか雪温計や気温計に頼るようになった。鋭い感性は、とにかく山に入ることで養われる。天気図から天気を想像する。雨の冷たさ、つらさを想像する。吹雪の恐ろしさを想像する。地形図から山の険しさを想像する。増水や鉄砲水を想像する。ルンゼの落石を想像する。山に入って雪崩を想像する。データから状況を解析するのではなく、いろいろ想像することができるのは、経験の蓄積や山に入って養った感性に豊かさがあるからである。
     気温を測定する、雪温を測る、ルーペで観察する。GPSを活用する。感覚と科学を組み合わせて・感覚をより確かなものにしてゆくことは、もちろん、大切である。感性を高めることにもつながる。機器を導入することも大切である。だが、機器によるデータが全てではない。機器によって部分的に精度を上げることはできる。だが、物事の核心・本質はむしろ、事象と事象の関係にある。事象と事象の関係を把へ、総合的に本質に迫るには、そこに思考の過程が入らなければならない。
     例えば、雪の弱層を捉え、その形成過程を捉え、より詳しく観察しても、弱層と上載積雪との関係・弱層と地形や植生の関係、そういった相関を把えることができなければ、雪崩の危険を判断することはできない。しかも一般論として把えるだけではなく、今この場所ではどうなのかという、具体的な問題の解答を求めているのである。GPSを活用すれば、かなりの精度で現在地位置を地図におとすことはできる。しかし、地形を確認し、樹木や植生を観察し、雪質の変化や風の向きに敏感になってそれぞれを相関的・総合的に把えてはじめて、ルートの設定が可能になる。決してGPSだけでルートの設定はできない。
     こうした思考過程に感覚や経験を取り入れていくことが、大事ではないだろうか。科学的データという確かなものに頼り過ぎると、曖昧なものを切り捨てる危険に陥りかねない。むしろ曖昧なものを元に、つまり感覚的に把えたことを大事にしながら判断する力を高めることが大切である。
  5. 判断が正しくあるためには

     判断とその意志決定を誤れば生命の危険に関わるような危機的状況下では、冷静に思慮深く対処できる事はむしろ稀で、判断を人に任せる者、「どうでもいいや」となげやりになる者、判断しない者、判断しようとする意志さえ失う者、願望に基づいて判断する者、可能性を把えられない者、困難を拒否する者、耐えることを拒否する者、否定的要素を拡大する者、全体を把えられない者、部分にとらわれる者などなど、人の弱点を露呈し混乱に陥り、最悪の場合にはチームが分裂することさえある。ことに、混乱の中に放り込まれた経験の不足・対話やディスカッションの不足・体験的学習の不足、経験不足、満ち足りた社会生活による感性の鈍化などが要因となって、こうした危機的状況を拡大する。
    不確実な要素、未知な部分など曖昧なところを含有する判断が、より正しさに近づくためには、@論理的、科学的に思考する。Aディスカッションを深める。B多数の意見を尊重する。C幾つかの選択肢を仮定し、可能性が低いもの、危険要素など否定的要素が多いものから消却する。あるいは、肯定的要素の多いものを選択する。等々、さまざまな方法があるだろう。確かにこれらの方法は、より正しさに近づくための方法であると言えるし、プロジェクト的に目的を追求する場合の有効な方法論であることも間違いない。
     しかし、こうした方法が有効であるためには、前提条件として登山における集団が等質に近い人間で構成されている必要がある。何故なら、等質でなければ多数が正しいとは言えないし(1人の賢者のほうが多数の愚者より正しい場合もある)、討論で思考を深めることはできにくい。
     しかし、実際の登山チームは残念ながらレベルの高い等質チームではなく、知恵のある者・ない者、未熟な者・経験の深い者・強い者・弱い者、さまざまな人間でチームは構成される。本来なら、チームの中で最も質的レベルの高い優れた者を(賢者を)リーダーに選出したのである。ディスカッションや多数決、選択肢の消却方法で、質的レベルの違いを乗り越えることができない事を前提にして、リーダーを選出したのである。賢者の判断はたとえ独断であろうと、質的レベルの劣るフォロワーの判断より正しい結論であるとして、決断をリーダーに託したのである。なおかつ、山登りにリスクがあることを覚悟の上でリーダーに最終判断と意志決定の絶村権を付与したのである。何故なら、チームの混乱は破滅、遭難を意味するからである。危機に直面してチームが一つになって力を合わせてはじめて、ピンチを困難に変換することができる。したがって、フォロワーは全面的にリーダーを信頼しなければならない。仮にリーダーが誤りを犯したとしても、それを容認し、一連托生を覚悟したのである。チームの生死を背負ったリーダーの荷物は重い。リーダーは全体を正しく把える総合力とともに、全員の生命を救うというヒューマニズムで武装されていなければならない。
    自然の事象の多くが科学的に今より把えられなかった時代、自然を敬い・自然の恵みに感謝し・自然を畏怖していた頃、経験深い知恵ある長老を賢者として尊敬し、その決定にしたがっていた。少しばかり科学が進んで、人が少し傲慢になって自然の支配者として思いあがった時、長老の知恵を否定するようになったのであろうか。それとも自然から遠のいて感性や経験がさびついてしまったのだろうか。
     近年、自己責任やリーダー責任などを追求する場合が多いが、登山の場合、判断が正しくあるため、そしてチームとしてまとまった行動を決定するため、リーダーの判断はチームの判断であり、リーダーの責任、フォロワーの責任、自己責任など分けて考えていいだろうか。リーダーは決していいかげんであってはならないが、登山では互いに生命をかけ助け合うチームである以上、自己責任やリーダー責任など、マニュアル的に分散することなど許されないはずである。
     チームはヒューマニズムで武装されていなければならない。喧嘩したり、いがみあったりしてもいい。だがその根底に、お互いを思いやるヒューマニティが溢れていなければならない。それが山男の尊厳であり、誇りである。最も大事なことは、生きて還ることであることはいうまでもない。そのためにリスクを覚悟の上で、一蓮托生を決心してチームを組んだのである。一蓮托生を覚悟できないかぎり、生命を預けあうチームワークは生まれない。
  6. リーダーシップにおける経験の蓄積

     自然は複雑で、天候や地形は多様で変化を見せる。自然を把えることは難しいのが、山登りにおける特徴であり、リスクである。山を完全に把えることは無理ではあるが、完全でなくとも状況を判断し、行動を決定しなければならない。その時、場合によっては一瞬のためらいも許されない厳しさがある。極端な言い方ではあるが、一歩一歩に、意識的にせよ無意識のうちにせよ、状況を判断し行動を決定していると言っても過言ではない。むしろ、訓練と実戦経験を積み重ね、感覚を敏感にして無意識的あるいは本能的といえるまで判断力を高めるべきである。
     複雑で多様な自然を把えることは難しい故に、推測を含む不確実な要素のある状況判断になるのもやむをえない。しかし、決断には曖昧さを残すわけにはいかない。何故なら決断の曖昧さが時として生死に関わるのが山登りであるからだ。
     もちろん.出来るかぎり合理的科学的に判断することが望ましいのは言うまでもない。しかし、推測や不確実な要素を含む以上、判断が適切であるか否かを、蓄積した経験に照らし検証する。それが登山である。リーダーの最も重要な任務が、山を把えること、状況の判断と行動の決定であるならば、知識や理論を学習し論理的思考力を高める努力は大切である。しかし、さらに重要なことは、知識や理論の範囲を超えて思考し、決断することを可能にする経験の蓄積である。ただし、個人の経験の蓄積には限界がある。他人の経験を論理的に整理することは科学的・合理的ではあるが、反面多くのものを切り捨てる危険がある。むしろ、素直に追体験することが大切ではなかろうか。記録やレポート・対話の中で相手になりきること、つまり記録が成功であればヒーローに、失敗に終われば敗残兵になるくらい感情移入の激しい追体験が、他人の経験を自分のものにできるのではないだろうか。経験が力として蓄積されるのは、例えば痛い目にあった経験を、なぜそうなったか、そこから学ぶことは何かと分析し、合理的に知識をくみ取ることはもちろん重要である。しかし、それ以上に、痛みを深く心に刻みつける事の方が重要に思えてならない。理屈はあとからいくらでもつける事はできる。それを分析とか検証として整理することで痛みも忘れてしまうのではないかと危惧する。痛みを心のきずとして残すことの方が、同じ失敗をしないことになるのではなかろうか。ただし、経験や感覚で把えた概念はまた、極めて曖昧である。曖昧であるが故に、結果的に評価されるのはやむを得ない。それを感受する覚悟も必要である。
     例えば、冬の登攀で谷に入るとき、科学的・論理的確証はなかった。精一杯学習したとはいえ、不完全な雪崩の知識の上に経験を組み合わせ、判断していたのである。結果から思えば、答えが合理的でない以上、全てが幸運に恵まれていたのである。ただし、誤解してほしくないのは「いち」か「ばち」かの賭けではない。曖昧であるとは言え、確信を抱いていたことも事実である。何故なら、パートナーとお互いに、「こいつ」を殺してなるものかという強いきずなで結ばれている以上、賭けにでるわけにはいかないからである。
     科学の進歩により曖昧なものは減少し、確実なものは増加する。登山者はその成果を取り入れなければならない。しかし、実際の登山では全てが合理的にはならない。曖昧なものを含んでいることも現実である。曖昧なものを排除し、より安全でありたいと誰もが願うことではあるが、より安全を求めれば登山は縮小する。何故なら登山に、絶対安全はありえないからである。結局、曖昧なものを含みながら、状況判断は安全であるか安全でないかを決断することに収斂する。
  7. 冬の登攀で鍛える

     ルート図を頭に入れ、残置ハーケンを目安に登る。悪いことではないが、コピーを見る前に、自分ならこの岩壁にどのようにルートを設定するだろうか・プロテクションをどう構成するだろうか・クライミングをどう構成するか等々を考え、創造することに山登りの総合力を高める鍵があるのではないだろうか。もちろん、そこにクライミングの楽しみも存在する。雪や氷で覆われた冬の岩壁は、残置ハーケンやボルトは隠れ、自分でルートを設定しなければならない。冬の岩壁だけではない。未知の谷や沢・岩稜へ挑戦しよう。情報を手に入れるなと言うわけではないが、情報をたよりにするのではなく、山を見て考えて自分の山登りを構成していく過程で、自ずと力を高めることができる。
     降雪や荒天で登攀が困難になって下降し、壁を降りたところで雪崩にやられた事例が多いように、冬の登攀では荒天による退却が雪崩遭難を意味することが多い。退却が危険であるならば、風雪がどんなに厳しく、登攀が困難で苦しくとも、登り切るより生きて帰ることはできない。どんな荒天でもいつかは回復する。耐える勇気を持つこと、困難に弱音を吐かないこと、小さな不注意を致命傷にしないこと(たとえば凍傷など)、登山における安全性や合理性の追求にまさに総合力が要求される。また冬の登攀には予測される危険には全て対処できる準備を整えても、なんとも捉え難い、言い知れぬ不安と荒天の恐怖がついてまわる。捉えどころのない不安と闘い耐える経験は、いざという時最も役に立つ経験ではないだろうか。困難な課題へ挑戦することをやめたのか、それとも未知なるものへ挑戦した経験が少なすぎるのか、情報を集めて結果を求める登山が原因か、言い知れぬ不安に耐え切れないのか、最近は冬の岩壁へ向かうクライマーは激減した。
     もう一度、冬の岩壁で鍛えなおしてみたらどうだろうかと考えてほしい。今から60年も70年も前に、冬の鹿島槍の北壁や荒沢奥壁の初登攀がなされたのである。それを越える冬の登攀が今展開されているだろうか。装備や用具は良くなったクライミングやアイスクライミングのテクニックは向上した。だが、70年前のクライミングを本当に越えただろうか。
  8. 退却と救助の訓練で総合力を高める

     どこで行き詰まるのか、どのようなアクシデントが発生するのかわからない。それが登山である。どういう状況に陥ろうと、そこから退却する。帰還する能力は、むしろ登攀能力以上に重要である。退却すること・安全を確保すること、こうした防御に関する力を向上させて、はじめて登山本来の未知や困難という課題に挑戦できる。
     詳細な情報を手に入れて登山を組み立てることは出来ても、その情報にアクシデントや退却は組み込まれていない。
     退却や救助の経験はもちろん少ない。もっとも、多い方がどうかしている。だとしたら、退却や救助の力を高めるには訓練しかない。今までどちらかと言うと、登る力を鍛えることに重点をおいてきた。退却や救助におけるルートを設定する力、緊急事態の中で総合的に安全を構成する能力、負傷者を搬送する力、つまり状況に応じた退却や救助を構成する総合力を高める必要が、防御の力の中心になる。
     例えば、風雪の中、雨の中で緊急ビバークする訓練、恐ろしい疲労凍死をどうやって防ぐのか、シェルターはどうやって作るのか、どこまでどうやって搬送するのか、落石や雪崩の危険の判断、安全の確保、支点の構成、ザイル操作、搬送手段、夜間行動をどのように組み立てるのか、ルートはどのように設定するのか等々、現場の状況を捉え、救助を組み立てる力はまさに登山者の総合力が試されるといっても過言ではない。
     実際の救助や退却で経験を積み、能力を高めることは無理である。山中に入って、出来れば未知の谷や沢でこうした訓練を組み立てることが、結局は総合力を高めることになる。
     こうした防御に関する研修を柱として、研修内容や方法を全く新たに構築する必要があると考えている。
  9. 確保について徹底して学ぶ

     墜落したときどれだけの衝撃がかかるのか、その衝撃をどのように緩和するのか、そのための理論学習は欠かせない。衝撃を予測し、衝撃を緩和する方法を組み立てるには、どうしても確保理論(まだ完成されていないが)を学ばなければいけない。
     確実なアンカーを設け、ランナーを適切に設置する。つまり、リードするもののプロテクションの構成力とビレイヤーの制動確保が確保を構成する。しかし、実際の登撃では落下率に基づいて理論どおりにランナーを設けることは難しい。つまり、理論に基づいて確保を構成できない不確実性が存在する。この不確実性を確かなものにするのは、絶対に落ちないという読みとそのクライミングの構成力である。ランナーがあらかじめ設置されているゲレンデの訓練は重要であるが、こうしたプロテクションを構成するカは部分的にしかつかない。つまり、プロテクションの設置という確実性と読み(ルートの設定や落ちないという登り方)という不確実性を合成して確実性を高める構成力は、実際の登攀でなければ身につかない。
     実際のルートは、岩場の弱点、つまり登りやすいところを求めながらもクラックを活用する。ハーケンを活用する。つまりプロテクションの構成を主としてルートが設置されていることを銘記してほしい。クライミングの課題はもちろん難しい所を登るところにあるが、またプロテクションをどう構成するかも重要な課題である。
     とは言え、実際は、ザイルによる確保の失敗よりもザイルを使わなかったが故の失敗事例が多い。困難な所での事故より、むしろ比較的やさしい所や、積雪期の滑落事故などの事例がそのことを示している。
     つまり、ザイルを使用していれば防げた、または致命傷にはならなかったと思える事例があまりに多い。その理由はほんの短い距離だから、そう難しくないから、ちょっと面倒だから、時間がかかるから等々である。積極的にザイルを使っていたら、事故は半減するだろう。ただし、ザイルによる確保は、何らかの強固な支点を介して成立する。つまり、支点を構成しなければならない。
     たとえ少しでも予測される危険があるならば、絶対に落ちないという読みが成立していなければ、ザイルを使用すべきである。転落・滑落事故を防ぐ基本は、ザイルで正確に確保することである。こうした研修で重要なことは、確保の技術を学ぶのではなく、実際山中で確保を組み立てる力を養うことである。
  10. 雪崩対策の研修

     雪崩が発生するか否かの判断は難しいが、弱層テストの精度の向上、あるいは規格化などによって、その判断力を高めようとして努力してきた。しかし、弱層テストによる判断は部分的解決であって、全体的・総合的判断力の向上ではない。弱層および弱層の形成過程を把えることは大切であるが、弱層以外のいろいろな条件、上載積雪の量と質・地形・植生・傾斜・斜面の積雪状況・降雪状況・風の影響・日射や気温の影響等、さまざまな要因が雪崩発生に関与している。また、個々の要因が全体として雪崩の発生にどのように関連しているか、またまだ不明点が多いし、把えにくいのが現実である。したがって、実験あるいは観察の量と質を増大し、そうした雪崩発生に関する様々な要因を把える条件を整えることはさらに重要なことになる。
     弱層という崩壊面の存在と上載積雪の駆動カで、メカニズム的に雪崩を説明することはできる。しかし実際、登山中、弱層テストや積雪についての観察は、最も雪崩の発生しやすい地点ではなく、そこから場合によってははるか離れた行動予定ルートの雪崩を判断する。おのずから推測による判断になる。
     弱層テストと積雪の観察は重要である。ただし、それは雪崩の判断に必要なほんの一部分の要因にすぎず、むしろ上載積雪の量と質・地形や植生・傾斜・全体的積雪状況・降雪の状況・風や日射・気温の影響など雪崩の発生に関する他の要素を観察し、さらに科学的に把える方法を模索する必要がある。もし、現時点で科学的に把えることが不十分であるなら、経験的・感覚的に把えてきたことや方法を整理し、再構築する必要がある。そうあるためには、実際山地において山全体を把える規模で、どこに雪崩が発生するのか・どのくらいの規模の雪崩か・どこまで走る(流れる)か・この沢からか、あの沢が先なのか・2時間後はどうなるかなど、発生要因や規模・雪崩の流路などを山の中で具体的に考え、推測する訓練が重要である。
     確かに尾根より谷の方は雪崩が集合してくる。尾根は発生地点でも雪崩の流路にはなりにくいし、デブリが集合するわけではない。しかし、尾根だからといって安全でないように、谷だから危険なわけではない。どちらが危険であるかどうか論じる前に、現場で安全かそうでないかを推論すべきである。現場を離れた、安全と呼ぶ猫の額ほどの斜面での雪崩対策の訓練は、結局山全体を把える訓練にならず、弱層を把える訓練に終始する。
     雪崩埋没者の捜索訓練も同様、実際に雪崩に流されたらどういう状況になるか想定して訓練しないと、ビーコンというお宝探しごっこの訓練になる。
     実際的な状況を想定してはじめて、基本的な雪崩埋没者の捜索救助方法が構築されるのであり、そうでなければビーコン捜しの部分にこだわったミクロ的捜索のわなに陥る。露出している装備や身体の有無の捜索・流路のカーブの外側へはじき出されたり内側へ埋没したりする可能性・木に引っ掛かる・露岩や崖の陰・デブリ末端など埋没位置を推測する重要性、数キロメーターに及ぶ大規模雪崩の捜索など、実際に雪崩はどうであるか出来る限り実際的に想定した上で、実戦的捜索救助訓練によってよりよい捜索救助を構築しなければならない。そして訓練の過程を通して捜索救助をどう構成するか、リーダーシップはどうあるべきか・見張りをどう配置するか・荒捜索と精密捜索・掘り出し救出その後の応急処置等現場に即した救助を構築する。
     今まで弱層に関する科学的知識の導入によって(これも大切だが)、弱層テスト等にこだわり過ぎた判断力の養成と、ビーコン捜索ごっことも言える捜索訓練に偏っていたのではないだろうか。その結果、部分にこだわり過ぎて現実的な雪崩捜索が出来なかったのではないだろうか。
     数量的・科学的に把えることは難しくても、たとえ経験的感覚的であっても、山全体を把える・現実的な規模での雪崩を把える訓練を構築しなければならない。
     もちろん、完璧ではなく多くの誤りと怪しげな知識と経験に基づくものであっても、再構築する必要がある。
  11. おわりに

     数々の提言を試みた。今まで努力し、討論し、構築してきた、確保技術・搬送技術・低体温症対策・ビバーク技術・雪崩対策・危急時対策等が、決して間違っていたとは思わない。しかし、技術の広い実践性を求めながら、実際には技術を教えることにこだわり、山を把えることから少し離れてきたかもしれない。
     大事なことは、山を把える力を養うこと。チームがヒューマニズムで武装されていること。そうであるために、何が一番重要であるか考え続けること。